彼は肥後国(ひごのくに)北里村(現在の熊本県阿蘇郡小国町)の、庄屋の長男として生まれました。熊本の医学所病院、東京医学校、東京大学医学部と、一貫して医学の勉強に励み、内務省衛生局に入りました。衛生局では細菌学導入計画に加わり、衛生試験所細菌室で学ぶなど、細菌研究に深く関わっていきます。
その後ドイツに留学し、コッホの研究室にはいります。彼が破傷風菌の純粋培養に成功したのはこの研究室でのことです。
彼が創立した医学の研究機関、北里研究所は、彼が私財を投じて創立したもので、病気に関する研究をはじめ、医療知識の普及や発展、予防ワクチンや薬品の製造、検査、そして公衆衛生行政の指導者養成にいたるまで、幅広い目的をもった研究機関でした。
この研究所の創立には、彼にとって不愉快な経緯があります。ドイツから帰国した彼は、まず、福沢諭吉の協力を得て大日本私立衛生会附属伝染病研究所を発足しました。明治25年、彼が39歳のときです。
ところがその7年後、この伝染病研究所は内務省の管轄となり、さらにその15年後の大正3年には、大隈重信内閣が文部省に移管、東京帝国大学の付属とすることを決めました。所長だった北里はこれに抗議して辞職しますが、職員も彼に同調し、全員が辞めてしまうという異常事態に陥りました。そして新たに設立したのが北里研究所です。彼は生涯に渡り、研究所の所長を務め通しました。
彼はジフテリアと破傷風の血清療法の発見、ペスト菌の発見など、医療に直接関係する功績のほか、慶應義塾大学医学部や北里大学の創設に尽力するなど、後進の育成にも多大な貢献をしました。
後年、大日本私立衛生会会頭、日本医師会会長、第6回極東医学会会頭などを歴任し、1924年には男爵に叙せられました。人生を医学に捧げたといっても過言ではない北里は、1931年、昭和6年6月17日、脳出血により、その一生を終えました。78歳でした。