2013年12月20日

医療以外にも大きな貢献をした北里柴三郎

 いまから161年前、1852年の今日、日本の医学に大きな功績を残すことになる、一人の人物が誕生しました。破傷風菌の純粋培養や、免疫血清治療発見で知られる、細菌学者北里柴三郎です。
 彼は肥後国(ひごのくに)北里村(現在の熊本県阿蘇郡小国町)の、庄屋の長男として生まれました。熊本の医学所病院、東京医学校、東京大学医学部と、一貫して医学の勉強に励み、内務省衛生局に入りました。衛生局では細菌学導入計画に加わり、衛生試験所細菌室で学ぶなど、細菌研究に深く関わっていきます。
 その後ドイツに留学し、コッホの研究室にはいります。彼が破傷風菌の純粋培養に成功したのはこの研究室でのことです。
 彼が創立した医学の研究機関、北里研究所は、彼が私財を投じて創立したもので、病気に関する研究をはじめ、医療知識の普及や発展、予防ワクチンや薬品の製造、検査、そして公衆衛生行政の指導者養成にいたるまで、幅広い目的をもった研究機関でした。
 この研究所の創立には、彼にとって不愉快な経緯があります。ドイツから帰国した彼は、まず、福沢諭吉の協力を得て大日本私立衛生会附属伝染病研究所を発足しました。明治25年、彼が39歳のときです。
 ところがその7年後、この伝染病研究所は内務省の管轄となり、さらにその15年後の大正3年には、大隈重信内閣が文部省に移管、東京帝国大学の付属とすることを決めました。所長だった北里はこれに抗議して辞職しますが、職員も彼に同調し、全員が辞めてしまうという異常事態に陥りました。そして新たに設立したのが北里研究所です。彼は生涯に渡り、研究所の所長を務め通しました。
 彼はジフテリアと破傷風の血清療法の発見、ペスト菌の発見など、医療に直接関係する功績のほか、慶應義塾大学医学部や北里大学の創設に尽力するなど、後進の育成にも多大な貢献をしました。
 後年、大日本私立衛生会会頭、日本医師会会長、第6回極東医学会会頭などを歴任し、1924年には男爵に叙せられました。人生を医学に捧げたといっても過言ではない北里は、1931年、昭和6年6月17日、脳出血により、その一生を終えました。78歳でした。


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2013年12月17日

ライト兄弟が動力飛行機で世界初飛行

 110年前の今日、1903年12月17日、航空機の歴史に記念すべき記録が生まれました。アメリカノースカロライナ州のキティホーク海岸で、動力飛行機として世界で初めて飛行に成功したのです。挑戦したのはライト兄弟。兄ウィルバー35歳、弟オービル32歳でした。
 そのとき使われた飛行機は1人乗りの複葉機「フライヤー1号」。エンジンは水冷式の12馬力で、プロペラは木製の2枚羽根でした。機体はマツとトネリコの木材の骨組みにモスリンの布張り。重量70キロで、翼の面積は47.39平方メートルでした。座席などはなく、腹這いになって操縦する構造でした。
 実験は最初に弟が搭乗して行われ、飛行時間12秒、飛行距離30メートルを記録。続いての兄は59秒で260メートルでした。飛行時間や距離の長さはともかく、立派な成功と言えるものでした。
 ところで、この飛行実験にはちょっとしたエピソードがあります。じつは、成功した日の3日前、12月14日に、すでに一度実験が行われていたのです。そのときは弟が搭乗し、飛行時間3秒で31メートルを飛行していました。ところが、着地に失敗したため、成功とは認められなかったのです。
 兄弟は、飛行機に関わる前は自転車の製造販売業を営んでいました。商売が順調だったにもかかわらず、分野の異なる飛行機づくりに携わるようになったのは、ドイツのリリエンタールがグライダーの飛行実験で墜落死したことを知ったからでした。1896年8月のことです。
 リリエンタールの死から3年後の1899年5月、兄は科学啓発団体であるスミソニアン協会に航空関係の資料を求めるなど、飛行機の研究活動を本格化させました。
 そしてその年の8月、弟とともに、幅1.5メートルの、複式の翼がついた凧を製作し、基礎的な実験を行いました。翌1900年から1902年にかけて合計3機のグライダーを製作し、さまざまな実験を続けました。そして、1903年の動力飛行機へと道を拓いていったのです。
 ところで、初飛行成功の日の見物客はたったの5人だったということです。

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2013年12月10日

ノーベルとダイナマイトとノーベル賞

 いまから112年前、1901年の今日、スウェーデンの化学者、アルフレッド・B・ノーベルの遺志によって制定されたノーベル賞の、第1回授賞式が行われました。12月10日はノーベルの命日で、毎年この日、午後4時30分から授賞式が行われます。 
 ノーベルは、1833年にストックホルムで生まれました。小学校入学の翌年、一家でロシアに移住しますが、それ以後、正規の教育を受けず、化学者ジーニンなどから個人的授業を受けました。ジーニンは、ノーベルが後に発明するダイナマイトと切っても切れない関係のニトログリセリンに、興味を抱かせることになった化学者です。
 ノーベルは17歳のときから2年間、母国スウェーデンをはじめ、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカなどへ渡り、化学や機械学、語学などを学びました。
 クリミア戦争の間は、父の軍需工場を手伝いながら技術的なことを学び、1863年にストックホルムに戻ると、いよいよ父とともにニトログリセリンの研究を始めました。研究が進むに連れ、ニトログリセリンは社会に普及していきますが、爆発事故などが多発し、批判も多く出ました。彼の弟も、事故によって命を落とした一人でした。
 ダイナマイトは、そんな紆余曲折を経て誕生しました。各国に工場ができ、1886年にはノーベル・ダイナマイト・トラストという会社を設立し、彼は巨万の富を築くことになります。
 その一方、彼の評判は決していいものではありませんでした。ダイナマイトは、土木や鉄道など、大規模な工事に大きく貢献したものの、物を破壊するものであり、兵器にも使えることから、印象が悪かったのです。
 それは、平和を愛する人道主義者のノーベルにとり、無念で哀しいことでした。彼のその気持ちと平和を願う心が、ノーベル賞を生み出すきっかけとなったのでした。
 1896年、彼は他界し、全財産3100万クローネがスウェーデン科学アカデミーに寄贈されました。賞の選考条件には、候補者の国籍は考慮しないこと、人類の福祉に最も具体的に貢献した人びとに与えることなど、彼の遺志がいまも生きています。

モダンメカニクス 世紀の発明大図鑑 ModernMechanix1930-1960


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2013年11月25日

さまざまな分野で大きな功績を残したカーネギー

 今から178年前、1835年11月25日、後に「鉄鋼王」の異名をとるアメリカの実業家、アンドルー・カーネギーが誕生しました。
 ただし、生まれた場所はアメリカではなく、スコットランドのダンファームリン地方でした。貧しい職人の家で産声をあげ、彼が13歳だった1848年、一家でアメリカのペンシルベニア州へ渡りました。
 彼は苦学しながら、織物工場の糸巻夫、機関夫、電報配達夫、電信技手などを経て、ペンシルベニア鉄道へ就職しました。ここでは管理職にまで昇進しましたが、鉄道経営よりも、鉄道建設用資材の生産や供給の事業に魅力を感じ、製鉄業に乗り出しました。
 主に鉄製のレールを生産していましたが、次第に「これからは鋼鉄の時代だ」と確信し、1970年代には製鋼所を建設しました。
 80年代にはいくつかのライバル企業を支配下におき、90年代には、鉱床や炭鉱、船舶、鉄道などの企業を買収。
 そして99年、これらの事業を統合し、カーネギー製鋼所として組織変更しました。これによって、原料の生産から完成品まで、一貫して生産する体制を築きあげたのでした。
 しかしその後、企業間に生じた軋轢や社会情勢の変化によって苦境に立たされ、1901年に企業を売却、実業界から退きました。
 その後は、「富は神より委託されたもの」という信念に基づき、慈善事業に尽力しました。多額の資金を惜しみなく投じ、教育や研究のために、いくつもの財団や基金を設立していきました。ごく一部をあげてみると、カーネギー工科大学、カーネギー協会、カーネギー教育振興財団、カーネギー財団、カーネギーホールなどがあります。
 カーネギーホールは、世界の音楽家の檜舞台となった演奏会場で、1981年に、ニューヨークに建設されました。建設時は、単にミュージックホールと呼ばれていましたが、1898年にカーネギーが出資して改築し、それを機にカーネギーホールという名称に改められました。
 さまざまな分野で大きな功績を残したカーネギーは、1919年、マサチューセッツ州レノックスで、83年余の生涯を閉じました。



ラベル:鉄鋼王
posted by プッチン at 10:09| 人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月23日

樋口一葉のはかない生涯

 樋口一葉の小説、「たけくらべ」をご存じの方は多いでしょう。美登利という少女を中心とした子供たちの、少年期から青年期へかけての境遇や心の模様を描いた、哀愁やせつなさが漂う物語で、森鴎外や幸田露伴なども絶賛したという不朽の名作です。
 今日11月23日は樋口一葉の命日です。
 一葉は明治5年3月25日、東京に生まれました。父は東京府庁の役人であり、金融や不動産業も手がけていたため、経済的には恵まれていたものの、女に学校教育は不要と主張する母の意見により、小学高等科四級、現在でいえば小学5年生を終えたところで中退させられてしまいます。
 後に、歌人の和田重雄に指導を受けたり、中島歌子が主宰する萩の舎の門下生となったりし、和歌作りに没頭します。作った歌の数は4000首を超えるといわれます。
 その間、2人の兄のうち上の兄と父が他界します。2人とも結核が原因でした。父の死後は生活が困窮します。それまでの住まいを離れ、妹を加えた3人で新たな所帯を持ちます。そんな中、一葉は小説家を志しました。19歳になって間もなくの頃でした。
 21歳の夏、一家は荒物や駄菓子を扱う店を開きます。ところが商売は振るわず、わずか10か月ほどで廃業にいたります。このとき経験した苦労や、周辺の子供たちの動きを観察したことが、後にたけくらべを生み出す重要な要素となりました。
 店の廃業後は創作活動に専念し、その年12月には文芸雑誌「文学界」に「大つごもり」を発表します。22歳でした。
 翌年1月からは、同じ雑誌にたけくらべの連載を始め、小説家として本格的に開花します。その年にたけくらべを完成させ、「ゆく雲」や「にごりえ」、「十三夜」を、そして翌年1月には「わかれ道」と、一葉の神髄ともいうべき作品を集中的に発表し、世間から注目を浴びます。
 ところが、ようやく花開いたと思ったこの頃、非情なことに一葉は病魔に襲われていました。父や兄と同じ結核でした。その年、明治29年の11月23日、5年間の作家活動で生み出した20編の作品を残し、わずか24年8か月の、はかない生涯を閉じました。

たけくらべ (集英社文庫)
にごりえ・たけくらべ (新潮文庫)

ラベル:たけくらべ
posted by プッチン at 07:08| 人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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