彼が4歳のとき、一家はパリに移り住みました。父は洋服の仕立屋でしたが、家は貧しく、彼は13歳頃から、陶器の絵付けの仕事に就いて家計を助けました。その後も、家具や巻き上げ日除けの絵付け、婦人用の扇子の絵を描く仕事などをして働きました。
幼い頃から苦労をしたわけですが、じつはこうしたことで、繊細な技術や色彩感覚、感性などが養われ、後に画家として大成する下地がつくられていったのです。
1862年、二十代になって間もなく、画家をめざしてシャルル・グレールの教室に入学します。彼はこの教室でモネやシスレー、バジールなどとめぐりあい、さらに彼らを通じて、ピサロやセザンヌなどとも交流するようになります。こうした環境下でモネやマネの影響を受け、次第に印象主義の技法や表現を形成するようになっていきました。
その後も印象派の絵画運動への協力や印象派展覧会への出品ほか、研究や見聞も重ね、力をつけながら次々と作品を発表します。
40歳でアリーヌという女性と結婚し、3人の男子をもうけました。後に、長男ピエールは俳優に、次男のジャンは映画監督になっています。
1900年には、文化的な功績を認められ、フランスでは最高の勲章とされるレジオン・ドヌール勲章を授与されました。
その3年後には、持病のリウマチがひどくなったことから、医者の忠告によって、気候が温暖な南フランスのカーニュ地方に移り住みました。コレットと呼ばれる別荘で、女性や子供、花や風景など、大量の絵を描いたほか、彫刻やリトグラフなども制作しました。
リウマチの悪化で体が不自由になってからは車椅子に乗り、絵筆を手に縛りつけて絵を描いていたそうです。
1919年12月、その別荘で、78歳の生涯を閉じました。この別荘は、彼が暮らしていたときのようすをほぼとどめた状態で、現在、ルノアール美術館となり、彼の人物像や足跡を伝え続けています。
ラベル:ルノアール美術館